服部天神宮について

御祭神由緒
1.
昔、朝鮮を経由して吾が国へ渡って来た秦の人々は、機織りの技術を吾が国に伝えましたので、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着きました。
 当地「服部」の地名も、このあたりに秦氏の人々が住んでいたことから成りたったものと思われます。
 秦氏は、医薬の祖神・少彦名命を尊崇していましたので、この地にも小祠を建てて、少彦名命をおまつりしていました。
2.
秦氏の人々がこの地に移り住んでから数百年が過ぎ、時は延喜元年(西暦901年の春、右大臣、菅原道真公は、無実の罪をきせられて九州太宰府へ左遷される途中、このあたりまで来られて持病の脚気に悩まれ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。
 その時、村人たちは、少彦名命をおまつりしてある天神祠に詣でて、足病の平癒を祈願されるようにおすすめしました。
3.
「少彦名命は、神代の昔、大国主神と協力して国土を治められ、さらに遠く海外の地をも巡られて、この世の生きものたちのために医薬の方法を定められ、また生きものにとりついて苦しめる邪霊を祓う方法も定められました。この時より今の世に至るまで、生きとし生けるもので、この二柱の大神のご恩をこうむっていないものはおりません。このように尊い少彦名大神にお祈り申しあげますならば、かならずやおみ足の具合も良くなられると思います。」
 このように申し上げる村人の言葉にうながされた菅公は、少彦名命をまつる天神祠へとむかわれました。
4.
菅公が天神祠へお参りされますと、境内近くの路ばたにある五輪塔が目にとまりました。
  そして、その五輪塔がこの時より百年程の昔に太宰府へ左遷される途中、病に臥され、遂にこの地にてなくなられた川辺左大臣、藤原魚名公の墓であることをお知りになった菅公は「昨日は他人の身、今日は吾が身にふりかかる定めか」と嘆ぜられ、天神祠にご自身の足病平癒を祈願されると共に、魚名公の霊をもねんごろにとむらわれました。
5.
すると、不思議にも間もなく菅公の足の痛みやむくみは治まりました。こうして少彦名命と魚名公の霊の御加護によって足の病がいえた菅公は、ふたたび九州へと旅立たれ、無事に太宰府へ到着されました。
6.
菅公が太宰府においてなくなられたあと、菅公を神として尊崇する天神信仰が全国にひろがりました。
 当社も菅公の霊を合祀し、「服部天神宮」として社殿を造営し、「菅公脚気平癒の霊験」を伝え聞いた全国よりの参詣人と、また当地が能勢街道の要所であったこととで、次第に門前市をなすようになり、殊に江戸時代の中期から末期にかけては、その最盛期であり、境内外は非常な賑わいをみせたのでした。
崇敬団体について
服部天神宮総代会
氏子崇敬者を代表して、神社の維持経営について、宮司を扶け氏子を指導し、御神徳 の発揚と神社の興隆を図る会
豊中えびす講
豊中えびす講は、宗教法人服部天神宮境内末社たる豊中えびす神社の祭 祀並びに維持経営に直接奉仕し、
併せて服部天神宮の祭儀に協力する団体
初酉稲荷講
服部天神宮内鎮座の初酉稲荷神社を崇敬し、服部天神宮氏子崇敬者で、地元商店会を中心に結成された講
服部天神宮敬神婦人会
服部天神宮の御神徳を敬仰して、その宣揚に奉仕し、婦徳の涵養に努め、清く明るい世の中をつくることを
目的にしている会
服部天神講社
「足の神様」として崇敬されている当社の御神徳を常日頃御参詣されている方、又遠方で直接御参詣が出来ない方々で
結成された団体
服部天神宮奉賛会
服部天神宮崇敬者を中心として神社の維持管理を助勢する有志の会
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