川辺左大臣藤原魚名公の墓

摂津国豊能郡は、もと川辺郡と称し、ここにあった川辺荘は藤原魚名公の別業であったと伝えられ、ここ服部郷は川辺郡機織(はたおり)郷から服部(はっとり)と地名が生れたといわれています。川辺左大臣藤原魚名公は藤原鎌足の曽孫にして光仁、桓武両朝に幾多の要職を歴任しましたが、延暦元年事に坐し太宰府に左遷御下向の途次、摂津国川辺荘の別業において病に臥して身を動かすことあたわず「よろしく京都に帰養すべし」と恩勅がありましたが、遂にこの地にて薨ぜられ、服部郷松ヶ市にその骸を葬られました。 それより約百年後の延喜元年、菅原道真公もざん言に逢い太宰府に流される途次、足の病に悩まされましたが此の地において村人の案内によって医薬の祖神少彦名命を祀る天神祠に詣でその平癒を祈願されました。そして境内近く路傍の片隅にある五輪塔を御覧になって、これはまさしく先賢魚名公の墳墓であることを知られ、「昨日は人の身、今日は吾が身にふりかかるさだめか」と嘆ぜられ懇ろに供養を捧げられました。かくて菅公は吾が天神祠と魚名公の御神霊の加護によって足の病が全快し、無事太宰府に旅立たれたと伝えられます。菅公歿後この天神祠に菅公の霊を合祀し堂宇を建立し、吾が服部天神が全国津々浦々にまで聞こえて、足の神様としての霊験をいただく善男善女で門前市をなす様になったと申し伝えられています。 魚名公の子孫の正統は四条家で、四条流包丁道を伝え、この四条家の祖たる魚名公は、日本料理、割烹料理の祖神として料理飲食を業とする方々の崇敬を集めています。 魚名公の墓の詳しい資料は当宮文庫に保存されています。尚往年の宝塚の名スター春日野八千代さんは魚名公の子孫に当たります。