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御祭神である秀吉公のエピソードや大阪城にまつわる話をご紹介します

秀吉公の画像について


当社の社宝であり重要美術品の紙本著色の秀吉像は、大和小泉(奈良県大和郡山市)の片桐家伝来、伝狩野山楽筆の名品で、数ある秀吉画像の中でも他に類をみません。
唐冠をかむった衣冠姿で曲ろくに座し、前方の沓床(くつどこ)に脱いだ沓が置いてあります。禅僧の肖像画にあっては曲ろくに法被をかけてあるのが普通ですが、本画像は法被こそありませんが明らかに伝統的な頂相(ちんぞう)形式を念頭におきながら法体像(ほったいぞう)ではなく、公家の略礼装をした秀吉公を描いています。そして武家であることを強調するため実在しないような長大な太刀を曲ろくに立てかけています。
片桐家の伝承によれば、秀吉公没後、大阪城主になった幼少の秀頼がある時城内で重臣達を前に亡父秀吉公の画像を見たいものだと述べたところ、片桐且元(かたぎりかつもと)が未表装の画像を持参しました。感激した秀頼が画像上方の余白に自ら「豊国大明神 秀頼書」としたためて返したとのことです。秀吉公自筆の辞世和歌の草稿と思われるものが神号の横手に貼り付けてあるのも目をひきます。本画像は構図が極めて珍しいだけでなくその容貌においても独特の生気にあふれています。歴史の教科書等でよく見られる代表的な画像とは随分異質に思われますが、顔の造作をよく見ると非常によく似ています。
《『豊臣秀吉を再発掘する』渡辺武著・新人物往来社・1996》


秀吉公も好んだ桐の花
大阪城天守閣の北側、一段低くあまり日当たりのよくない山里丸にキリの大木が約30本、ケヤキやクスノキ、イチョウなどの樹木の間に生い茂っています。これらのキリに毎年、4月下旬から5月上旬にかけて薄紫色の花が美しく咲きそろいます。緑色の葉をスカートのように腰につけて3本の花芯が天に伸びていく、この姿が桐紋の原形であり、一般に豊臣家のシンボルと認識されています。桐紋を豊臣家の家紋とみなすには問題がありますが、桃山時代に「五三」「五七」などの桐紋やさまざまな桐文様が大流行した事実と、その発端を秀吉公の桐紋愛好に求める説は無視できません。なお、現在の桐は昭和40年の極楽橋再架以後に植樹されたものです。
《『大阪城秘ストリー』渡辺武著・東方出版・1996》


お城のドン
小天守台の上に西向きに備え付けられていた大砲があります。現在は天守閣大門前の東側に移設されています。明治維新以来、大阪城地を占用していた当時の陸軍が、明治3年(1870)6月からこの大砲を使って毎日朝・昼・夜の3度、黒色火薬を用いた空砲により、時報を打ち鳴らしました。同7年7月からは正午のみとなりましたが、これが城内だけでなく大阪市中に毎日とどろきわたったため、大阪市民にとって正午の時報の役割を果たすようになりました。これを、「お城のドン」とか「お午(ひる)のドン」と呼んで大いに重宝したのです。
《『大阪城秘ストリー』渡辺武著・東方出版・1996》

 
大阪城築城について
古代、難波宮が営まれ、宮殿を中心に壮大な難波京のプランが立てられました。この難波京は8世紀末長岡京遷都を機に廃墟と化しましたが、15世紀末本願寺8世法主蓮如がその付近の摂津国東成郡生玉庄大坂という在所に一宇の坊舎を立てたのをきっかけに新たな活気が生まれ、16世紀にはその一帯が大坂本願寺、通称石山本願寺とその寺内町大坂として繁栄するところとなりました。しかし、戦国の世を生き抜くため城郭化をすすめた石山本願寺は、織田信長との長い戦いの末、天正8年(1580)寺地を明け渡して紀州へ移ったとき、堂塔伽藍が寺内町もろとも全焼しました。信長はその廃墟を将来のため手中に収めたものの、活用できないままこの世を去りました。大阪城と大阪の直接の起源とされる豊臣秀吉の大阪築城は以上の前史をふまえて実現したものです。
天正11年(1583)、攝津国を入手した秀吉公は、早速大阪の“旧城”(石山本願寺)跡地に天下統一の拠点とするべき大城郭の築造を企て支配下の諸大名、諸職人、諸商人を総動員して同年9月着工しました。およそ1年半でまず本丸が完成。ついで二の丸、数年後に惣構(そうがまえ)、最後に死の直前に三の丸の築造というように、2キロメートル四方にも及ぶ鉄壁の巨城の完成には15年もの長い年月と尨大な労力を要しました。
築城当初、1日2、3万人の人々が工事に携っていましたが、後には5、6万人も動員されたと、当時の記録は伝えています。また、築城開始後わずか40日間に7000戸もの家屋が大阪城周辺に建てられたとも伝えられています。少なく見積もっても築城工事は5、6万人もの人々の大阪への集団移住を促し、必然的に城下町の基礎を形成しました。当時、京都に次ぐ大都市堺の人口が約5万人だったことからみても驚くべき大都市の出現といえるでしょう。
《『大阪城歴史散策』渡辺武・保育社・1992》

 
秀吉公の銅像
境内の秀吉公銅像については、こちらをご覧下さい。

昔の銅像について
豊國神社が中之島にあったとき、境内には秀吉公の銅像がありました。小説の一節に、当時の様子がよくわかる内容がありました。


その時分のことであるが、赤吉(註主人公赤木赤吉)の住んでいた大阪に、初めて図書館というものが出来た。それは大阪一と言われているあるお金持が当時の金で二十萬円とかを寄付して、中之島公園に建つことになったのである。
その頃中之島公園に豊臣秀吉を祀った豊国神社という社があった。その境内に、ちょうど東京の靖国神社の大村益次郎の銅像、――あれを境内も銅像もずっと小規模にした形で、豊臣秀吉が太閤の服装をした銅像が建っていた。更にそれが靖国神社のと似ていることは 大村銅像があそこから上野の森を睨んでいるように、この豊臣銅像は大阪城を睨んだ形で据えられていた。(中略)それに、大村胴像がその人物の高さのところまで上がってみなければ、目的の上野の森が見えないのに対して、豊臣銅像の方はその踏んでいる台石の下に立っていても、銅像の向かっている方角に目をやると、天守閣をもがれた大阪城の高い石垣が、淀川とその沿岸の家々の屋根の上に、手にとるように眺められた。その石垣の蔭に午砲(ドン)の大砲が据えられてあったものとみえて、正午になると、その石垣の上の空にぱっと白い煙が上がったとみると、間をおいてドーンと銅像が震えるような強い響きを送ってきた。(中略)初め、赤吉は図書館というのは何をするところだか知らなかった。しかし、彼はその豊臣銅像のそばのベンチを好んで、終始そこに行ったにつけて、誰からか、それがどういうものかということを聞かされた時は、飛び上がる程うれしかった。彼はそれからというもの、今までよりは一層しげしげと、それにお尻をむけながら、一日毎に出来上がりつつある二十萬円の図書館の見事な丸屋根のある塔を持った建物を飽きず眺めいったものである。
「出世五人男」宇野浩二 昭和4年 新潮社「長編小説全集」

 

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